球界の寝業師・根本陸夫がドラフトでやらかした根本マジック一覧 

西武ライオンズや福岡ダイエーホークスの元監督で、チーム編成面でもドラフトやトレードで数々の衝撃をプロ野球界に与えてきた『球界の寝業師』こと根本陸夫さん

プロ野球の全てを知っている男とまで言われ、その選手獲得に関する豪腕は『根本マジック』と呼ばれるほどだった根本陸夫さんが、今までに裏で動いていたと言われるドラフトをまとめてみました

根本陸夫

1926年茨城県水戸市生まれ

日大三中(現日大三高)⇒法政大学・1952年近鉄入団

現役時代は捕手で186試合に出場。1957年現役引退

現役引退後は近鉄でスカウトやコーチを務め、1968年から広島カープの監督に就任し、就任一年目に球団初のAクラス入りを果たす

72年に退任後はクラウンライター・西武・ダイエーで監督を歴任

西武・ダイエー監督時代は事実上のGMとしてチームを強化し、監督を退いた後も編成のトップとしてドラフトやトレードで辣腕を振るい『球界の寝業師』と呼ばれた

1999年ダイエーホークスの球団社長に就任も、その年の4月に心筋梗塞で永眠。72歳

根本陸夫さんが携わった主なドラフト選手・西武編

根本マジックその1 1978年・松沼兄弟(松沼博久・雅之)

兄の松沼博久は東洋大学を卒業後、東京ガスで活躍。弟の雅之も東洋大学で通算39勝・防御率1.64という成績を挙げた本格派投手でした

弟の雅之はこの年のドラフト注目選手でしたが、兄・博久のいる東京ガスに入社が内定しており、プロ入りはないと見られていました

そこで西武がいつもの根本氏の作戦で、弟の雅之に系列のプリンスホテル入りを打診。しかし兄のいる東京ガス入りの意思が固くプリンスホテル入りを拒否

当時の東京ガスの社長が有名な巨人ファンで、前年に江川卓の巨人入りを仲介した人物であったことや、松沼兄弟の動きなどから、根本氏が率いる西武の編成グループは、松沼兄弟が巨人に囲い込まれているという疑念を抱きます

そこで松沼兄弟周辺を調査したところ、やはり巨人の囲い込みがあると判明

しかも西武がそれに気がついた時には既に巨人との話がかなり煮詰まっており、兄弟そろってのドラフト外での巨人入団がほぼ決まっていたものの、西武はなんとか松沼兄弟を都内の料亭に誘い込み、そこで待ち受けていた根本氏が西武入りを説得

巨人が松沼兄弟に提示していた金額は2人合わせて1億2000万円と言われていますが、西武はそれを上回る1億5000万円を提示

さらに茨城県で建設業を営む松沼兄弟の実家にも、西武グループから利根川の砂利の採掘権を譲渡。この凄まじい条件で2人をドラフト外で強奪する事に成功しました

この年のドラフトの目玉で3球団競合、1年目から22勝を挙げた日本ハムの木田勇投手の契約金が6000万円と言われています。当時は高校生の1位で3000万円~大学社会人で5000万円~が相場でした
この時の松沼兄弟の評価がいかに高かったかが伺えますね

ちなみに松沼兄弟が西武入りを決断したその夜、週刊ベースボールでは『巨人、松沼兄弟をドラフト外で獲得』という記事が印刷に回される予定で、巨人はその翌日に長嶋茂雄監督自らが松沼兄弟を迎えて契約をする会場まで用意していました

西武にとってはまさに間一髪での痛快強奪劇であり、巨人にとっては大恥をかかされた大失態でもあったわけです

この西武と巨人の松沼兄弟争奪戦、球団同士だけの話では収まらず、松沼兄弟の西武入団が決まった直後に、読売関連の新聞や雑誌から西武グループの広告が一斉に消えるという騒動にまで発展しています

松沼兄弟争奪戦の前年 江川獲得での西武と巨人の場外乱闘

この西武と巨人の松沼兄弟争奪戦、実はその前年から既にバトルは勃発していました

というのも、この前年に西武はクラウンライターから球団を買収しているのですが、クラウンライターはその年に江川卓投手をドラフトで引き当てたので、江川投手の入団交渉権を持っていました

入団交渉権はドラフト指名から1年間有効で、西武はその交渉権を球団買収後もそのまま引き継げる事を確認出来ていたので、江川入団を新球団の目玉にする予定でいました

江川投手は福岡に本拠地を置くクラウンライターからの指名を『九州は遠すぎる』という理由で拒否した訳ですから、移転して関東に来た西武としては、地の利を活かしてなんとか交渉をしていきたいと考えていたのでしょう

ところが、さすがの西武でも江川入団を実現させることが出来ず、空白の1日を経て巨人へ入団してしまいます

その江川投手の巨人入団が決まった直後、西武鉄道の売店から読売新聞とスポーツ報知が一斉に消えるという西武の復讐があったのですが、このように西武と巨人は球団外でのバトルも中々派手にやらかしてきています笑

この空白の1日があった当時、江川投手が雪印のCMに出演するという噂があったらしく、巨人に入団が決まった翌日、西武の関連企業から雪印製品が全て撤去されるという事もありました。西武恐るべしです…

根本マジックその2 1980年・秋山幸二

秋山幸二選手は熊本の八代高校時代はエースで4番、プロからも注目される選手でしたが『プロでやる自信がない』という理由で、九州産業大学への進学を表明

ところがドラフト会議終了後に突然プロ入りを表明したことで、ドラフト外による争奪戦となりました

当時はドラフトで指名されなかった選手を対象に、ドラフト後に交渉し『ドラフト外』で入団させるという事が可能でした

ほとんどの球団が投手として秋山選手を評価している中で、巨人と西武だけが打者として獲得を打診し、ここでも松沼兄弟争奪戦と同じく西武が巨人に競り勝ち、ドラフト外で西武入りとなりました

表向きでは、根本陸夫さんが『打者として大きく育てたい』と執拗に口説く姿に、秋山本人や母親が感動し、それが西武入りの決めてだと言われていますが…

ドラフト後の突然のプロ入り表明や、契約金がドラフト1位の選手を上回る5000万円と破格だった事、推薦での入学が決まっていた九州産業大学側から突然『西武になら秋山を譲る』との発言があった事などから、根本陸夫さんが裏で暗躍したのは間違いないだろうと言われています

根本マジックその3 1980年・高山郁夫・川村一明

1980年のドラフト会議では高校球界屈指の好投手、秋田商業の高山郁夫投手が『西武以外に指名されたらプリンスホテル入り』と早々に明言

しかし、日本ハムが果敢に高山投手をドラフト1位で指名しますがそれを拒否し、明言通りプリンスホテル入りする事になりました

また、同じくプロ注目の好投手だった松商学園の川村一明投手も、阪急からのドラフト1位指名を拒否し、プリンスホテル入りを選択

さらに巨人からドラフト4位指名の中京高校・瀬戸山満年選手もプロ入りを拒否し、プリンスホテル入りする事に

ドラフト1位の高校生投手2人がプロ入り拒否し、しかもその2人が同じ社会人チームに入るという前代未聞の出来事にプロ野球界が激震に見舞われましたが、これこそまさに根本マジックの本領発揮といえる荒業でしょう

当時は高校生や大学生のスター選手が社会人チームに入る場合、支度金というのが支払われる習慣があり、甲子園のスターには数千万単位のお金が提示される事もありました

高山郁夫投手に関しては高校1年生の頃にはすでに根本さんが接触しており、早々に西武から囲われていたという噂もありますが、この選手たちにプリンホテルが相当な支度金を払っているのは容易に想像出来ますね

その後、川村一明投手は1983年のドラフト4位で、高山郁夫投手は1984年のドラフト3位で、それぞれ西武に入団しています(瀬戸山満年選手はプロ入りせずプリンスホテルに残留)

ちなみに、高山投手と川村投手がドラフト1位指名を拒否した1980年のドラフト、プリンスホテルからは石毛宏典選手(西武)中尾孝義選手(中日)と、2人のドラフト1位指名選手が出ていますが、この2人も根本陸夫さんがプリンスホテルを使った囲い込みで、大学から獲得したと言われています

中尾選手は1位で中日に指名されますが、後にトレードで西武が獲得(帰還?)しています

この高山郁夫投手や川村一明投手の親族も後にプリンスホテルに就職しています

この頃の根本さんは、いい選手がいると家族ごと抱え込んだり系列のプリンスホテルを経由させたりと、野球協約のギリギリのラインを突いて次々と選手獲得を行っていきます

根本マジックその4 1980年・愛甲猛

1980年のドラフト、西武は系列のプリンスホテルから石毛宏典選手を1位で獲得する事が決まっていましたが、ドラフト前に横浜高校の甲子園優勝投手・愛甲猛選手にも接触

支度金2000万円(4000万円との噂も)でのプリンスホテル入りを打診するも、本人が大洋ホエールズ入りを強く希望していたので、もし大洋以外ならプリンスホテル入りという事で話がまとまりました

大洋側は、東海大学の原辰徳選手を1位指名する事を決めていましたが、巨人を始めとする他球団と重複するのが解っていたので、原選手を外した場合の外れ1位で愛甲選手を指名すると本人にも伝えていました

当時のドラフトは今と違い、外れ1位は抽選ではなく前年の下位球団からのウェーバー指名となっており、この年のウェーバーは、南海・中日・阪急・阪神・西武・大洋という順番になっていました

そこで大洋は少しでも愛甲獲得の可能性を高めるために、関西球団には事前に断りを入れてくれと愛甲選手にお願いをしています(実際には名古屋より西はお断りという宣言をして、新聞にも掲載されました)

この時点で愛甲選手は大洋入りをかなり期待していたものの、それがまさかのロッテ単独1位指名

ロッテからはドラフト前に法政大学の武藤一邦選手を1位で指名し、2位で愛甲選手が残っていたら指名すると伝えられていたそうで、それがまさかの入札1位指名でした

こうなると事前に話のあった『大洋以外ならプリンスホテル』という事になるかと思いきや、上で紹介済みの高山郁夫・川村一明投手も日本ハムと阪急のドラフト1位を拒否してのプリンスホテル入りが決まっており、さすがにドラフト1位3人というのはマズいという事になり、根本陸夫さんの上司にあたる堤オーナの直近の人物から『とりあえずロッテに行け』と言われ、結局ロッテに入る事に

その代わり後でトレードで西武に引っ張るという約束もあったそうですが、それは実現しませんでした(実際愛甲選手のプロ入り3年目から西武は何度もロッテにトレードの打診をしたそうですが、ことごとくロッテに拒否されています)

この頃の社会人野球は今と違い非常に景気が良かったようで、愛甲選手は地元の日産自動車から支度金800万円での入社を打診されていたそうです

また、リッカーもかなり熱心に愛甲選手の勧誘に動いており、それを横浜高校の渡辺元智監督が断り続けていると、なんと支度金が4000万円まで跳ね上がったと渡辺監督から告げられたのだとか

その愛甲選手の代わりかどうかはわかりませんが、この年のリッカーには春の選抜優勝投手で、後に阪神で活躍する高知商業の中西清起投手が入社しています

根本マジックその5 1981年・伊東勤

伊東勤選手は熊本工業の強肩強打の捕手として甲子園に出場。その甲子園でも2ホーマーを放ち、一躍ドラフトの目玉選手に躍り出ました

ところが伊東捕手の在籍が熊本工業の定時制だったため、問題が複雑化

3年生なので一般の高校球児と同じようにこの年で高野連の出場登録からは外れるものの、定時制は4年制なので、ドラフトの指名対象選手にはならなかったのです

高校を中退してこの年のドラフト指名を待つというのは制度上問題はなかったものの、家族はもちろん、伊東選手本人がどうしても高校卒業にこだわったため、多くの球団はこの高校卒業願望を理解し、来年のドラフト解禁を待つことで、この年の指名を回避しました

しかし、伊東捕手の能力を高く買っていた根本陸夫さんは、伊東捕手の後見人と言われていた熊本工業OBであり西鉄ライオンズOBでもある、熊本県のある議員に接触します

さらに伊東捕手の担当スカウトにも、この議員がかつて所属した西鉄ライオンズのOBを2人配置し『伊東包囲網』を着々と敷いていきました

その根本氏の裏工作が見事に効き、伊東捕手を西武球場近くの所沢高校の定時制に転校させ、昼間は西武の球団職員として採用。普通なら到底思いつかないような強烈な『根本マジック』を成し遂げるわけですが、根本さんはさらに、翌年のドラフトで伊東捕手をドラフト外で獲得することを考えていたようです

しかし、本来ならドラフト1位間違いなしの選手だったわけですし、他球団もさすがに西武のやりたい放題を見過ごす訳にはいかなかったのでしょう

ドラフト直前になって、いくつかの球団が伊東捕手を指名するのは可能なのかとプロ野球のコミッショナー事務局に打診

結果は『西武の球団職員ではあるが西武と選手契約を結んでいるわけではない。指名は問題ない』という発表だったため、他球団も伊東捕手獲得に名乗りを挙げる事になりました

特に巨人とヤクルトが伊東捕手の獲得に対して熱心に動いていたようですが、そうはさせまいと西武は堂々と1位で伊東捕手を指名しました

ドラフト外での獲得という、本来の狙い通りとまではいきませんでしたが、その後の黄金時代を支えた大功労者を獲得出来たわけですから、ドラフト1位の枠を使ってまでの獲得も大成功だったのは間違いありません

ちなみにこの年の2位指名は早稲田大学らかプリンスホテル入りした、同じく囲い込みの噂があった金森栄治選手。6位も同じく根本マジックの噂の絶えない工藤公康選手でした(工藤投手は当時の報道で、1位の伊東捕手より契約金も年俸も高かったと言われています)

根本マジックその6 1981年・工藤公康

名古屋電気高校(現・愛工大名電)のエースとして、1981年夏の甲子園でベスト4に進出

その年のドラフト注目投手だった工藤公康投手ですが、ドラフト前に社会人の熊谷組行きを明言し、工藤投手に接触してきたプロ9球団に指名お断りの手紙を送付

この熊谷組入り明言と各球団への手紙の送付が、また根本さんの仕業か…と各球団に疑われたようですし、今現在も工藤投手の熊谷組の話は根本陸夫さんの工作だと思われてる野球ファンも多いと思いますが、実は熊谷組の入社は本当に工藤投手と両親の意志だったようです

ただ、夏の愛知県大会の頃には『工藤は熊谷組から栄養費を受け取っている』というキナ臭い噂が、プロ野球のスカウトの間で流れていたようですが…

工藤の巨人入りを阻止した西武

実はこの当時、読売新聞は発行部数でニューヨーク・タイムズを超えるという目標を掲げており、そのための戦略として、愛知県を中心とした東海地区での発行部数増を目指していました

そこで巨人も親会社の『愛知県戦略』の一環として、愛知県の大府高校から槙原寛己投手をドラフト1位で指名。さらに2位で工藤投手と高校でバッテリーを組んでいた、名古屋電気高校の山本幸二捕手も獲得

ところがこれをドラフト会場で見ていた根本氏が、巨人の山本幸二捕手の指名は3年後の工藤指名の布石だと確信し、それなら先にうちで獲ってしまおうとその場で西武が指名を決めたというのが本当の話のようです

工藤投手本人も『プロでやるならセ・リーグ。それが巨人なら最高』と言う発言をしていたようですし、読売サイドも槙原寛己・工藤公康という愛知県のスターを獲得する事で、愛知県を中心に東海地方での読売新聞の発行部数を伸ばしたいという思惑もあったようですが、これを根本氏の嗅覚で直前で潰したというわけです

ただ、それでも突然の強行指名にはさすがの根本さんも躊躇したようで、それを当時の広岡監督が猛プッシュし、6位指名を決行したのだとか

工藤家と根本陸夫のドタバタ交渉劇

突然西武に指名された工藤投手ですが、それでも熊谷組入りの意思は変わらず、西武スカウトは工藤家の人達と会う事すら出来ない状態が続きました

このような膠着状態に西武の担当スカウトのが音を上げてしまい、根本さんに撤退か冷却期間を置くことを提案するも、根本さんはそれを許さずにアタックの継続を指示

その後、根本さんも交渉の場に入り、ドラフトから一ヶ月以上が経過した年末ギリギリの12月28日にようやく交渉が成立し、工藤投手と根本さんが報道陣の前でにこやかにカメラに収まる事になりました

ところがなんと、その翌日の29日に工藤投手の父親が西武との契約撤回を表明

父親曰く、熊谷組への入社内定の取り消しは話が付いているという西武側の説明を信じて西武と契約したが、実はそれが事実ではなかったとの事で、改めて熊谷組入りを表明するという急転直下の大混乱になりました

大晦日に根本さんが工藤家を訪れて再度説得するも話は上手くまとまらず、さらに名古屋電気高校からは『生徒の就職活動に支障をきたす』という声明まで出されるほど窮地に立たされた根本さんですが、その後なんとか話がまとまり、熊谷組からも『工藤投手の意思を尊重する』という言葉をもらい、今度こそ工藤投手の西武入団が無事に決まりました

熊谷組としては工藤投手を横取りされて当然面白いはずもありませんが、西武がキャンプ予定地としていた高知県春野のグラウンド設備を熊谷組に発注するという『お返し』を行い、この工藤問題は手打ちとなったようです

ただ、これ以外にも根本さんが工藤家や熊谷組に使った裏工作はあったようで、根本さんいわく『それを明かすと怪我人が出る』らしく、その事についてはその後一切触れずに亡くなられてしまいました

もちろん熊谷組も工藤家もこの裏工作が何だっかのか、今日まで一切明らかにしていません

根本マジックその7 1985年・清原和博・桑田真澄

1985年のドラフトと言えば清原和博・桑田真澄のKKドラフトですが、普段ドラフトに関してめったに手の内を明かす事のない根本陸夫さんが、この年のドラフト前には珍しく『うちは清原か桑田のどちらかで行く』と公言

これは当時噂されていた巨人の清原・桑田両獲りを阻止するための根本さんの牽制だと言われていますが、早くから早稲田大学進学を希望してた桑田投手に『何か裏がある』と根本さんは感じていたようです

実際、巨人と西武だけは、桑田投手の早稲田大学進学希望なんてまるでなかったかのような素振りで、ドラフト戦略を進めていきます

KKドラフト 巨人と西武が描いたシナリオ

まず、巨人が描いていたKKドラフトのシナリオは以下の2つ

1)1位は競合覚悟で清原指名。外れたら桑田1位指名
2)1位の競合で運良く清原が引けたら2位指名で桑田

この巨人のシナリオに百戦錬磨の根本さんは当然感づいていたのですが、それどころか、実はこのシナリオこそ、根本さんが西武のドラフトで描いていたシナリオそのものでもあったのです

しかし、さすがの根本さんでも清原桑田の両獲りは難しいと思ったようで『1人が巨人に入るのは仕方ない。しかし2人とも巨人に獲られるのは絶対に許さない』という方向に考えを転換し、KKドラフトへ挑むことに

そこで根本さんは巨人に揺さぶりをかけるために、スポーツ紙の巨人担当記者へ『西武の1位指名は桑田で行く。もう身辺調査も済んでいる』という情報を、さりげなく流したのです

巨人が桑田で行くなら西武は清原を指名する。巨人が清原で行くなら早稲田大学進学を表明している桑田を単独指名出来るというのが根本さんの考えだったようで、これなら確実に巨人の清原桑田両獲りを阻止出来るうえに、清原の抽選はあるものの、西武がどちらかを獲得出来る可能性も高まると踏んだわけです

その一方、清原入札・外れで桑田1位を考えていた巨人としては、もし清原選手をクジで外してしまうと両方獲れなくなってしまうわけで、当然編成は大混乱。

しかも根本さんのことだから西武が本当に桑田1位指名で来るのかどうかも解らない。結局最後は王監督の決断に任せたのですが、それが清原選手を回避し、獲得出来る可能性の高かった桑田投手の1位指名となったわけです(ドラフト後の王監督は『元気のいい若い投手が欲しかった。清原君には申し訳ないが私が投手で行きたいと言った』と発言)

そんな中、巨人が回避した清原選手を根本さん自ら6分の1で引き当てるのですが、このKKドラフト、巨人の思い通りにはさせないぞという根本さんの執念を見るようなドラフトだったのではないでしょうか

ちなみにあのKKドラフト当日、会場の関係者や世間の野球ファンは巨人の清原回避と桑田指名に驚いていましたが、根本さんはドラフトの数日前から巨人が清原選手を指名しない事と桑田投手が早稲田に進学しない事を知っている素振りを見せていたそうです。この人の情報網は本当に恐ろしいですね…

根本マジックその8 1986年・森山良二

森山良二投手は1981年夏の甲子園に福岡大大濠高校のエースとして出場、卒業後は早稲田大学進学を目指すも2浪してしまい、早稲田を諦め地元の北九州大学に入学

そこで西武に目を付けられたのですが、その素質に惚れ込んだ根本陸夫さんが、なんとか確実に西武が獲得するためにと、なんと北九州大学を中退させ、根本さんの知人の会社であるONO(オー・エヌ・オー)フーヅに入社させ、他球団の目を遠ざけたのです

しかもこのONOフーヅ、野球部のないごく普通の食品会社で、森山投手も普段はレジ打ちなどの業務を行っていました

シーズンが始まると、西武が提携するアメリカの独立リーグチームにも森山投手を派遣し、実戦経験もしっかりと積ませていたのですが、なんとこの独立リーグ派遣時は、他球団に森山投手の存在を隠すために中国人の名前で選手登録していたのだとか笑

そして、ここまで徹底した根本さんの囲い込みが実り、無事に西武が獲得したわけです

ちなみに、森山良二投手と言えば、超無名とか謎のドラフト1位などとよく言われていますが、これは間違いで、超無名なのはONOフーヅという会社であって、森山投手は知る人ぞ知るといった投手でした

実際、高校時代や北九州大学時代から森山投手に注目していた球団は複数あったようで、だからこそ、その素質に惚れ込んだ根本さんはここまで徹底して囲い込み、確実に獲得するための1位指名だったようです

今のようなネット時代なら絶対に不可能な囲い込みですよね

根本マジックその9 1988年・渡辺智男

1985年の春の選抜、高知の伊野商業を甲子園初出場初優勝に導いた渡辺智男投手

その選抜の準決勝で対戦し、3三振を奪われた清原選手が『高校時代に力で抑え込まれたのは渡辺智男だけ』と認めるほどの素晴らしい投手だったのですが、高校卒業後はプロには進まず社会人のNTT四国入り

NTT四国では在籍した3年間全て都市対抗に出場し、1988年のソウルオリンピックのメンバーにも選ばれたのですが、オリンピック直前に右肘を故障

この年は渡辺智男投手のプロ解禁の年でもあり、プロからもドラフト1位間違いなしと言われていたのですが、この怪我を理由にプロ拒否を表明。ドラフト1ヶ月前には右肘の手術を行い、右腕を包帯でグルグル巻きにした痛々しい姿がテレビにも映し出されました

右肘の手術にプロ入り拒否宣言。今年は渡辺智男投手のプロ入りはないと思われていたところ、西武が1位で強行指名してきたのです

実は記者や関係者の間では、ドラフト前から渡辺智男投手と根本さんの関係がかなり疑われていました

まず、渡辺智男投手の手術を担当したのが西武のチームドクターだったという時点でおかしな話なんですが笑、右肘は遊離軟骨除去の手術だったにも関わらず、その手術痕を見た誰もが『遊離軟骨除去の手術にしては縫合跡が長すぎる』と思ったそうです

これはただ肘を開いて縫っただけの偽装手術じゃないか…傷を見た人たちはそう思ったそうです。根本さんならやりかねないと

故障も嘘でプロ拒否も嘘。手術はただ右肘を開いて縫っただけの偽装手術…まるで漫画のような話なんですが、根本さんはこれを本当にやっていたようです

渡辺智男投手の入団が決まった時、根本さんは偽装対策なのか『肘が治るまで2~3年は体力づくりをさせる』と言って、しばらくは投げれないような事を匂わせていましたが、獲ってしまえばもう関係ないと思ったのでしょうか?1年目から10勝を挙げる大活躍でした笑

ちなみに、この根本マジックと言われた偽装手術を含めた裏工作、ある記者が後に渡辺智男投手本人に真実を聞きたいと訪ねたところ、笑ってごまかされて、否定もされなかったそうです

根本マジックその10  1988年・前田幸長

1988年夏の甲子園、福岡第一高校のエースとしてチームを準優勝に導いた前田幸長投手

甘いルックスと実力で甲子園のスターとなった前田投手のもとには、複数のプロ球団から上位指名の打診が来ていましたが、そんな中、根本陸夫さんも前田投手の父親に接触。ある日突然、父親からこう告げられたそうです

『西武の6位指名が決まった。ほかの球団には大学進学だと言え』

しかし、前田投手はこの6位というのがどうしても納得がいかなかったそうで、1位じゃないと嫌だとゴネると、それなら2位でどうだと根本さんから提案があり、2位でも嫌だというと、最終的に1位で指名するという話になったのだとか

そして、西武のドラフト1位指名が裏で決まり、表向きには大学進学でプロ拒否ということに

実際、ドラフト前日の福岡の地元スポーツ紙には『家族会議で大学進学を決めた。大学は法政や明治など12の大学から誘われていてるが、東京6大学ではなく東都か関西の大学に行くと思う』という記事も掲載されていました

あとはドラフトで西武の1位指名を待つだけだった前田投手ですが、いざ蓋を開けてみると、前田投手を1位指名したのはロッテで、西武の1位は同じく囲い込みの噂のあったNTT四国の渡辺智男投手でした

その日の指名会見で何を喋ったのか全く覚えていないほどの怒りとショックで、これまで1度も父親に逆らった事のない前田投手が、その日は父親に対して激怒したのだとか

この件に関しては根本さんにしては珍しく詰めが甘かったようで、1位の約束はしたけれど、プロ拒否を宣言させてる以上他球団の前田指名はない。だからとりあえず渡辺智男を確保して、高校生の前田は1位じゃなくても大丈夫。後で説得すればなんとかなると踏んでいたフシがありました

また、前田投手が根本さんが斡旋した大学のセレクションを受けなかったという事もあり、そのせいでガチガチの囲い込みが出来ず、何かを察したロッテが『前田は指名すればくる』と判断したのかもしれません

ドラフト後、西武からは系列のプリンスホテル入りを打診されるも結局ロッテ入り

プロ入り後、前田投手は1度だけ根本さんを球場で見かけた事があったらしいのですが、その時は挨拶する事もなく、このおっさんに騙されたんだなーと思いながら遠くから見つめていたそうです

根本マジックその11 1989年・鈴木哲

福島県立福島高校から2浪して慶応大学に入学

慶応大学ではプロ入りを拒否して話題となった1学年下の志村亮と共に、投手陣の柱として大活躍

6大学屈指の速球派投手として、1987年のドラフトでは1位での競合が予想されるも『海外でも仕事が出来るような大きな会社に就職したい』『プロ野球に魅力を感じない』とプロ入りを拒否。熊谷組への入社を早々に表明しました

特に巨人が熱心で、なんとかプロ入りへの方向転換を図るも頑なに拒否

当時は巨人に誘われれば心変わりするような選手が多かった中で、このような選手はとても珍しいと言われていました(巨人は同じくプロ拒否で本田技研入りが決まっていたPL学園の橋本清投手に方向転換し入団に持ち込んでいる)

熊谷組に入社後も一貫してプロ入り拒否を貫いていたので、このままプロ入りはないと思われていた鈴木投手ですが、プロ解禁の社会人2年目に西武が2位指名

指名後もプロ入り拒否を明言するも、実はドラフト前に西武スカウトに接触していたことが判明。また、熊谷組と西武いえば工藤公康という前歴もあったため、この鈴木哲投手の指名も根本マジックが疑われました

熊谷組に対しても、近くドーム化される予定だった西武球場の工事を取引に使ったのでは…と言われています

西武が鈴木哲投手を2位指名した年、巨人は有力と言われていた上宮高校の元木大介選手の1位指名を見送り、慶応大学の大森剛選手を1位指名していますが、この元木より慶応の大森を選んだ巨人の選択に根本さんが異変を感じ、急遽鈴木哲投手を『押さえた』という説もあります

慶応OBである当時の巨人・正力オーナーは、慶応の大物選手獲得を以前から切望しており、大森・鈴木両獲りもあるのではというのが根本さんの情報網にもあったのかもしれません。実際巨人は鈴木投手の大学時代にも熱心に獲得に動いていたわけですし

また、鈴木哲投手の慶応大学時代、巨人以外に最後まで1位指名で狙っていたのが中日で、鈴木哲投手を断念した後は南海と相思相愛だったPL学園の立浪和義選手にシフトチェンジ

競合での指名で中日が当たりくじを引き、結果的にはシフトチェンジは大成功となりました

根本マジックその12 1989年・小島弘務

平安高校から駒沢大学に進むも1年半で中退。その後住友金属で野球を続けていた小島弘務投手を、1989年のドラフト外で西武が獲得しました

他球団も注目していた投手をドラフト外で『またしても』上手く獲得した西武ですが、実は翌年の1月になって、小島投手がドラフトの指名禁止選手に入っていた事が判明

大学中退のため、住友金属では高卒扱いで登録されており、在籍2年目の小島投手はドラフト指名まであと1年必要だったのです

西武側は、大学中退は大卒扱いというプロアマの合意事項がある。だから社会人2年目の今年は指名対象だと反論し、なんと2月のキャンプに小島投手を参加させ強行突破を図ろうとしますが、また西武がルールの盲点を突いたと非難が集中し、結局小島投手はキャンプから強制帰還させられ、西武との契約解除と翌年以降も西武との契約禁止という処分がNPBから下されました

しかし根本さんは『次のドラフトで必ずプロに入れてやる』と小島投手と約束

西武との契約が無効になってしまった以上、球団の寮からも出ないといけなくなってしまった小島投手を根本さんの自宅に下宿させ、生活の面倒を見ながら練習にも付き合い、約束通り1990年のドラフトで中日に指名されるのですが、これがなんと1位指名だったのです

前年ドラフト外で、しかも1年無所属で浪人していた投手がドラフト1位指名、根本さんにとって中日の星野監督はオフによく食事を共にする弟分だったという事で、ここでも何かしらの『根本マジック』があったのは間違いないでしょう

住友金属時代の2年目、小島投手は肩痛の影響で試合には登板していません

しかし西武は、ドラフト外にも関わらず当時としては異例の4500万円の契約金に、背番号も14番を用意しています

ドラフト外、肩痛と契約金と背番号、そして根本さん

何もないと思う方がおかしいですよね笑

根本陸夫さんが携わった主なドラフト選手・ダイエー編

1992年のシーズン終了後、根本陸夫さんは監督兼球団取締役としてダイエーに移籍

ダイエーの中内オーナーに熱望されての、いわゆる『ヘッドハンティング』だったのですが、もちろん監督としてだけではなく、選手獲得やチーム編成も期待されての獲得でした

ちなみに1994年・95年の高額納税者ランキングで、根本さんは『その他』の部門で秋元康さんと並んで8位にランクインしているのですが、これはスポーツ部門で1位だったサッカーの三浦知良選手や2位の落合博満選手よりも高額でのランクインでした(この時の落合選手の年俸は推定3億8000万円)

ダイエー移籍後も、その高額の報酬に見合う、相変わらずの寝業師ぶりを発揮しています

根本マジックその13 1993年・渡辺秀一・小久保裕紀

この1993年から始まったドラフトでの逆指名制度

逆指名制度は大学生と社会人選手を1位・2位で確保出来る制度だったのですが、この年の目玉投手であった神奈川大学の渡辺秀一投手は、どこの球団に行きたいという希望よりも、ドラフト1位での入団に拘っており、1位指名を確約した球団の中でも、ロッテが獲得レースをリードしていると言われていました

ダイエーは青山学院大学・小久保裕紀選手の巨人との争奪戦に勝利し、小久保逆指名1位が決まっていたのですが、それでも1位指名にこだわる渡辺投手と面談

関東出身で、しかも小久保選手の1位指名が決まっているダイエーは絶対にないと思われていた渡辺投手ですが、なんとその交渉の席でダイエー入りが内定

交渉の席で『小久保を2位にする。君を1位で指名するから来てくれるか?』という言葉が相当嬉しかったようで、一気にダイエー入りとなりました

なぜこのような大逆転劇が可能だったかというと、薬品関係の仕事をしていた小久保選手の母親にダイエー店舗内の薬局の権利を渡していた事と、母子家庭だった小久保選手の父親代わりの男性が経営するバッティングセンターにも配慮していた事、それを踏まえて事前に根本さんが『順位は変動するかもしれん。2位でも来てくれるな?』と、小久保選手に念押しをしていたのです

1位指名の予定だった小久保選手は、根本さんの意向を汲んで2位指名に、そして渡辺投手は希望通り1位指名での入団となりました

当然、渡辺投手の契約も、本命だったロッテより色が付いたのは言うまでもありません

根本マジックその14 1993年・平井正史

1993年の春夏甲子園に宇和島東高校のエースとして出場

高校ナンバーワン投手と言われ、ドラフトでも1位指名が確実と騒がれた剛腕投手でしたが、ドラフトではダイエー以外拒否を宣言

しかし、この年から始まった逆指名制度で、ダイエーは1位で神奈川大学の渡部秀一投手、2位で青山学院大学の小久保裕紀選手の指名が決定しており、平井投手を指名するなら3位以下となるわけですが、それでもここでまた根本さんの力が動いており、ダイエーの強烈な囲い込みで、他球団は例え1位指名であろうと絶対に獲れない状況になっていたようです

しかしオリックスだけが平井投手の指名を諦めずに1位での強行指名を考えており、当時のオリックス球団代表の井箟重慶さんが直接根本さんに平井獲得を打診

しかし根本さんからは、もうダイエーに決まってるから指名しても無理だと突っぱねられたようですが、結局最後は根本さんが井箟さんの執念に折れる形でオリックスの平井投手指名を認めたのだとか

もしオリックスの粘りがなければ、1位渡辺・2位小久保・3位平井というとんでもないドラフトになっていたでしょうね

まあその数年後に井口松中柴原という、もっととんでもないドラフトをやるわけですが…

根本マジックその15 1994年・城島健司

甲子園出場はなかったものの、別府大付属高校時代は1年生の春から4番を打ち、高校通算70本塁打に遠投120メートルの超強肩

大型捕手としてドラフトの注目選手だった城島健司選手ですが、ドラフト前に駒沢大学への入学が既に決まっており、プロの各球団は指名を見送るしかない状態でした

ところが巨人とダイエーだけは城島選手のプロ入りの可能性を探って調査をしており、特にダイエーは駒沢大学の河原純一投手の逆指名争奪戦で巨人に敗れており、次の1位候補として城島選手の指名を本格的に検討していました

城島選手自身も夏の大会前には『プロに行く』と周囲に話していたように、本音ではプロ志望だったものの、逆指名権のない高校生では、希望球団だった巨人・西武・ダイエーに入れるか解らない。それならと、勧められていた大学進学へ気持ちが傾いたという状況でした

そのような背景から、ダイエーは指名すれば大丈夫だと確信し、城島の1位指名を決定

しかし、そのようなダイエーの行動をキャッチしたプロ野球コミッショナー事務局が『城島選手を指名しても交渉権は無効になる可能性もある』と通告。もし城島選手の指名で駒沢大学が抗議をした場合、コミッショナー事務局が介入する旨も伝えられました

しかし、それでもダイエーは城島1位指名を決行

その後、就任したばかりの王監督が別府大付属高校を直接訪問し、これに感激した城島選手は予想通りプロ入りの意思を表明。翌日には別府大付属の監督が駒沢大学の太田監督の元を訪れて謝罪。こうして城島選手のダイエー入団が決まりました

こう見ると、ダイエーは強引に城島指名を強行し、運良く入団してもらえただけのように思えますが、ダイエーが3位で駒沢大学の本間満選手を指名した瞬間、他球団のスカウトはやっぱり根本さんが裏でイロイロ動いていたんだなと確信したそうです(当時の本間選手はとても3位レベルではなかったそうです)

個人的にはないとは思うのですが、まさか駒沢進学の情報まで根本さんの描いた囲い込みのシナリオだったのでしょうか…?

この『城島騒動』がきっかけとなって、プロ入り拒否を示した選手のドラフト指名は禁止となり、プロ志望届制度が生まれる要因となりました

城島選手の高校時代、獲得を目指して各球団のスカウトが視察に訪れる中で、唯一視察に訪れなかったのが阪神だったそうです

それが、メジャーから日本復帰する際、真っ先に声をかけてくれたのが阪神だったので、『やっと阪神が来てくれた』と喜んでいたそうです

根本マジックその16 1996年・井口資仁・松中信彦・柴原洋

この1996年シーズン、投手陣の崩壊で最下位に沈んだダイエーは、王監督がドラフトでの即戦力投手のの獲得を熱望

同年に行われたアトランタオリンピック後だった事もあり、即戦力投手が例年よりも多いと言われたドラフト市場、王監督のお望み通りの投手補強がされると思われていたところ、なんとダイエーは上位3人を野手指名

この指名予定を聞いた王監督は激怒し、根本さんに詰め寄ると『投手王国を作るためにはそれを支える強力打線が必要なんだ』と説得されたのだとか

その野手上位3人の中の1位、井口忠仁選手は巨人・中日との大争奪戦を制し、2位の松中選手は本来下位で囲い込む予定も、ヤクルトが1位で獲得表明をすると2位に繰り上げ。3位の柴原選手はギリギリまで中日が1位指名を公言していましたが『ダイエー以外ならローソン(ダイエー系列)に行く』と宣言させて、こちらも実質逆指名

なんとドラフト1位レベルの野手を3人まとめて獲得するという、とんでもない離れ業を披露

ダイエーに移籍後も、強烈な寝業師ぶりを発揮した根本ドラフトでした

九州出身で地元志向の強かった松中選手の獲得は容易だったかもしれませんが、巨人中日と激しく争った井口選手には、都内にある実家近くのローソンの経営権を譲渡したと言われていますし、中日の星野監督に『金まみれの男』と批判された柴原選手も、根本さんだからこそダイエー以外を拒否させて3位という順位で獲れたのでしょうね。星野監督が嫌気がさすほどのお金を使って

結果的には、4位の倉野信次投手、5位の岡本克道投手を含め、歴史に残る大成功ドラフトでした

その他 根本マジックが噂されるドラフト獲得選手

1979年ドラフト2位・田鎖博美(盛岡工業)

東北では有名な快速球左腕で、ドラフトで大注目だったにも関わらず、プロ入り拒否でプリンスホテル入社を表明。しかしドラフトでは西武が2位指名

1980年ドラフト外・小野和幸(金足農業)

ドラフト前には全球団が指名の意思を見せ獲得の挨拶をを行うも、西武の囲い込みが強くて指名出来ず

1980年ドラフト外・西本和人(東海大四)

東海大学進学が濃厚で他球団が手を引くも、ドラフト外で西武が獲得

1980年ドラフト外・広橋公寿(東芝)駒崎幸一(日本通運)

共に会社残留でプロ入りの意思はないと思われ、他球団が指名を回避するも、西武がドラフト外で獲得

1983年ドラフト5位・仲田秀司(興南高校)

プロ入りを拒否し、指名を打診してきた球団にお断りの手紙を送るも西武が5位指名し、あっさりと入団

プロ入り拒否の手紙を送るやり方が2年前の工藤公康投手と同じだったことや、強いプロ拒否の態度だったにも関わらずすんなり西武に入団したことから、根本さんの関与が噂された選手でした

また、仲田選手の獲得に巨人がかなり熱心だったことから、巨人の指名を潰したかったのでは?という話も

1987年ドラフト1位・鈴木健(浦和学院)

西武は長嶋一茂を1位指名するという嘘情報を流し、早稲田大学進学と言われていた鈴木健選手を単独指名

指名当初は浦和学院の監督も鈴木健選手も困惑の表情を浮かべていましたが、根本さんは鈴木選手が早稲田大学への進学を悩んでいるとの情報を掴み、強行指名したと言われています

実際、その後の交渉は何事もなかったかのようにスムーズに進み入団となりました

1988年ドラフト2位・石井丈裕(プリンスホテル)

会社にまだ貢献できていなという理由でプロ入り拒否を宣言するも西武が2位指名

プリンスホテルの選手がプロ入りを拒否して西武に指名されて結局入団する

他球団はこれをホワイトと思うわけがありませんよね…

最後に

現役時代は実働4年の無名捕手。監督を通算11年務めるも、優勝どころかAクラス入りもわずか1度だけ

それでもチームを作りには超一流の力を発揮、ドラフトやトレードで次々に衝撃的な手を打ち続け、編成に携わった西武やダイエーの黄金時代の基礎を作り上げました

それまで完全に巨人中心だったプロ野球界に新しい風を吹き込んだのも根本さんだったような気がします

ダイエーの球団社長に就任された1999年の4月に亡くなられましたが、その年にダイエーが初優勝。優勝時の胴上げでは、かつて根本さんが獲得に携わった選手達がが代わる代わる遺影を掲げていました

監督は仮の姿、本業は選手獲得の裏工作とまで言われた『球界の寝業師』根本陸夫さん

今後、プロ野球界にこのような人は2度と現れないでしょうね

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