現役時代は3度の三冠王を始め、セパ両リーグで数々の打撃タイトルを獲得。監督としても中日ドラゴンズの黄金時代を築き上げた落合博満さん
現在は評論家やユーチューバーとして活動されていますが、今の野球ファンの中でも落合博満さんの中日監督時代は知ってるけど現役時代の全盛期は記憶にない、そもそも現役時代にプレイしている姿を見た事がない…という方も増えてきているのではないでしょうか?
1979年にプロ入りで全盛期が80年代から90年代前半ですからね…しかも当時は今のようにパリーグが注目されておらずほとんどテレビ中継もない時代です
実際僕も落合博満さんの全盛期のプレイを生で見た事は当然なく、インターネットの記事や動画でしかその凄さに触れてこなかったのですが、今回改めて落合博満さんの現役時代の成績や記録などを詳しく知りたくてイロイロ調べてみると、本当に偉大過ぎる素晴らしい打者だったこと、そしてプロ野球界で残してきた成績や記録があまりにも凄すぎたので、その凄さをぜひ皆さんと共有したいと思い、この記事を書きました
この記事を読んでいただければ、落合博満さんさんがいかに凄い打者だったかが解るはずです
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落合博満 プロ入りまでの略歴
1953年(昭和28年)12月9日生:秋田県南秋田郡西村出身(現・男鹿市)出身・右投右打:内野手
実家は和菓子屋で7人兄弟の末っ子。小学4年生時に兄の影響で野球を始める。琴浜村立潟西中学校に入学すると1年生から4番でエースを任される。最高成績は3年の地区大会での準優勝
高校進学時は秋田県内のほとんどの野球名門校から推薦の話が来たが、就職に有利なことと、野球部の指導方針が自分に合うと感じ、秋田工業高校に進学。入学後即4番を任されるが、入部3か月後に肩を故障し投手から外野手に転向
その後は上下関係の厳しさや体育会系の色が強い野球部に嫌気がさし、練習にもほとんど参加しなくなり、学校も不登校気味に。しかし、野球の実力があまりにもずば抜けていた事もあり、大会前になるとチームに呼び戻され、最終的には入部と退部を8回繰り返し、学校も3学年のうち2年を留年ギリギリの出席日数でなんとか卒業
高校卒業後は就職を予定していたが、野球部長の勧めで東洋大学のセレクションを受ける事に。そのセレクションで特大ホームランを連発し合格。しかし、入学前のキャンプや練習で、高校時代と同じように上下関係や先輩の横柄な態度に嫌気がさし、4月の入学前に野球部の合宿を飛び出し野球部を退部。大学も中退した
大学中退後は秋田に戻り兄が支配人として勤務するボーリング場でアルバイト。ここでボーリングにハマりプロボーラーを目指していた時期もあったが、草野球を楽しんでいる中で再び野球熱が高まり、高校時代の野球部長に相談。そこで東芝府中野球部のセレクションを受ける事を勧められ、合格。20歳目前で再び野球の道へ
東芝府中野球部には5年在籍し通算70本塁打を記録。在籍4年目の1977年ドラフト時には阪神タイガースから指名の可能性があったものの指名漏れ、翌1978年には後の名コンビとなる森繁和と共に社会人日本代表メンバーに選出。その年のドラフトでロッテから3位指名され入団
落合博満 プロ野球通算成績や獲得タイトル・キャリアハイ
通算成績
- 通算20年:1979年~1998年
- 通算出場:2236試合
- 通算打率:311
- 通算安打:2371
- 通算本塁打:510
- 通算打点:1564
獲得タイトル
- 首位打者:5回
- 本塁打王:5回
- 打点王:5回
- 最高出塁率:7回
- 最多安打:1回
- MVP:2回
- ベストナイン:10回
キャリアハイ
1985年
130試合・打率.367:本塁打52:打点146:OPS.1.244
これだけの成績と獲得タイトルの数だけ見ても、あまりにも偉大過ぎる打者なのが解ると思いますが、落合博満さんの本当に凄いところは、これらの成績の多くが40年経った今でも日本のプロ野球の歴代記録として残っている点です
落合博満さんが残して来た成績や記録、タイトルで『史上・歴代』などの冠がつく主なモノを挙げてみました
落合博満 今もプロ野球界に残る主な記録
- 三冠王3回:史上最多。入団4年目で三冠王は日本人最速
- 右打者最後の三冠王
- 28歳での三冠王は村上宗隆が2022年に獲得するまでの最年少記録
- 史上唯一の両リーグで200本塁打以上(パリーグ247本・セリーグ263本)
- 史上唯一の両リーグで最多得点
- 史上唯一の両リーグで最多四球
- 史上唯一の2年連続50本塁打以上(1985年 ・1986年)
- 右打者史上唯一のシーズン打率.360以上を2回(1985年 ・1986年)
- 1985年の得点圏打率.492:NPB歴代最高
- 1986年の出塁率.487:NPB歴代最高
- 1985年の146打点:パリーグ歴代最多
- 史上唯一の両リーグ本塁打王(ロッテ3回・中日2回)
- 史上唯一の両リーグ打点王(ロッテ3回・中日2回)
- 史上唯一の両リーグで最高長打率(ロッテ・中日で3回づつ)
- 最高出塁率7回:右打者歴代1位
- 打率3割シーズン11回:右打者歴代1位
- 43歳でシーズン打率3割達成:1996年・史上最年長3割打者
- 通算打率.3108:日本人右打者歴代最高
- 通算出塁率:.422:日本人右打者歴代最高
- 通算長打率:.564:日本人右打者歴代最高
- 通算四球数:1474:日本人右打者歴代最多
- オールスター通算打率.365:100打数以上の打者では歴代最高
- 首位打者・本塁打王・打点王をそれぞれ5回以上獲得は王貞治と落合博満のみ
落合博満さんの残した成績や記録、これだけの史上初や歴代最多などとしていまだに日本プロ野球界に残っています
現役時代や監督時代に『オレ流』という独特の野球観が賛否両論あったようですが、これだけの実績があれば誰も文句言えませんよね…
最後に 落合博満『オレ流エピソード』
最後に、落合博満さんの様々な『オレ流』エピソードを紹介します
- 大学を中退後、ボーリング場でプロボーラーを目指しながらアルバイトをしていた頃、日本初の女性プロボーラー須田開代子さんの元に、秋田にとんでもなくボーリングが上手い青年がいるという噂が届いていた
- 東芝府中へは臨時工として入社。野球部の練習は夕方からだったため、日中はライン作業でトランジスタラジオの基盤を組み立てていた。入社3年目で正社員になる
- 1991年、日本人では初の年俸調停を申請
- 2000安打を達成も名球会入りを辞退。入会資格を持つ選手で初めての入会辞退者に。理由は『任意団体だから入会も辞退も自由でしょ。そもそも名球会を目指して野球をやってきたわけじゃない』
- 中日監督時代は8年間で4度のリーグ優勝、日本一1回、8年連続Aクラスで中日の監督の中で歴代最高成績
- 中日監督時は外国人選手に『ここは日本だから日本語を話せ』と求めていた
- 2013年に中日のGMに就任。一年目でチーム総年俸を8億円以上カット
- 落合曰く、打撃三冠の中で一番獲得が難しいタイトルは首位打者。その理由は『ホームランや打点と違い誰にでもチャンスがある。だからライバルが一番多い』
- 26歳と遅いプロ入りだったため、名選手の通算記録よりシーズン記録を塗り替える事を意識していた
- 投手で入団した愛甲猛に打者転向を勧める。その理由が『甲子園を見てたけどお前は打者の方が稼げる』
- ロッテ時代に愛甲猛をとても可愛がっており、当時子供がいなかった事もあり本気で愛甲との養子縁組を考えていた
- クーラーが大嫌いで真夏でもクーラーを利用せず、就寝時も汗だくで寝ていた
- プロ入り時、阪急・山田久志のシンカーが全く打てず、山田本人にシンカーの攻略法を聞きに行く。その山田の200勝目がかかった試合で山田から3本塁打を放つが、打った球は全てシンカー
- 暴力が大嫌いで中日監督就任時には全コーチに『いかなる理由があろうと選手に暴力を振るったら解雇』という契約書にサインをさせた。当時の中日は星野監督時代の影響で暴力が日常化していたらしい
- 通算500安打、1000安打、1500安打、2000安打をすべて本塁打で達成
- 元広島カープの前田智徳の打撃を非常に高く評価しており、少年野球の指導でも『前田の真似をしなさい』と教えている
- 中日の監督を退任直後、講演でWBCの監督就任はあるかという質問に『絶対にやらない。あんな命を縮めるような事をなんでわざわざやる必要があるのか。そもそも私は短期決戦が下手なので私がやったら負けますよ』と発言
落合博満さん、やっぱり凄いですね~